FEB 25 - MAR 15 2026
- 2月12日
- 読了時間: 8分
更新日:2 時間前

唯今 Chapter: 6
「結晶化する断片(NINE STORIES)」
[会期|DATE]
2/25-3/15
[場所|PLACE]
金沢21世紀美術
山梨県の限界集落に居を構える角田純は、冬になると木を倒し薪を割り、夏になると川に水晶や虫を採取する。
山口県の離島、祝島に住む佐藤秀親は食べるための貝を採り、お気に入りの海岸に椅子を持っていき読書をする。
福岡県で生まれ育った佐々木亮平は時折必要最低限の荷物で旅に出かけその先々で何かを拾い集めては自室に飾る。
彼らの制作や生活の場は都市環境に依存していません。そして自然を中心とした活動の中で使われる五感は都市とは異なる対象に向けられます。
三者三様のドローイングとしての営みは、眼前に現れたヴィジョン(像)を瞬間的に定着させるための訓練のようなものです。どのような状態においてもそれらは続けられ、層を成していきます。
そのようにして生まれた無意識の原石がキャンバスに乗せられ、筆やヘラで丹念に形づくられ洗練されます。
意識的な造形プロセスを経て完成まで達したインスピレーションは絵画作品と成り、それらの作品は音であり映像であり匂いであり感触です。
吸い込んだ濃い緑の空気。瞼の裏に広がる海の輝き。遠くに聞こえる何かのエンジン音。わたしたちは作品を通して彼らの感覚で見つめられたものを眺めることができます。
ですがそこには説明できることはなにもないのかもしれません。
何が描かれているか、どうしてつくられたのか、何を伝えたいのか。生まれ出たイメージが意味や価値や名前として保管される前の枠の外を眺め続ける。
ディスプレイの外に向けられた彼らの目には何が映っているのか。そしてそれがあなたにはどう映るのか。
固定されずに漂っている感情や記憶が「絵をみる」という行為の上に立ち上がります。
角田純 | JUN TSUNODA
1960年愛知県生まれ。山梨県在住。
アートディレクターを経て、2000年代半ばに画家としての活動を開始。
90年代-00年代、数多くの広告作品を制作する傍ら同時に生み出されていた膨大な量の未完の作品群。今もアトリエに仕舞われているそれらは当時の角田の散文的記憶であり短い日記のようなものです。過去の自分が置いてきた原石を磨くように、それらを絵画として完成へと導きます。
佐々木亮平 | SASAKI RYOHEI
1985年福岡県生まれ。福岡在住。 ガラスペンとインクを使った緻密な描写を特徴とする絵画から出発し、近年は油彩表現をを軸に作品を制作する。
作品群は平面での表現を主軸としながらも拾った瓦礫に自身のコレクションの本のページを貼り付けたコラージュ、陶器の花器、タイルを使ったオブジェなど、身の回りの体験やイメージを最適な方法で形にすることを探求し続けています。
佐藤秀親 | SATO HIDECHIKA
1988年千葉県生まれ。2018年より独学で絵画を始め2020年からは瀬戸内海の離島に移住。絵画制作以前から現在にいたるまで、音楽の制作を並行して続けており、音楽から受けるインスピレーションは彼の絵画に深く影響しています。
日々の営みの中で研がれた感覚が刻まれ、擦られることで現れる造形がキャンバスという限定的な枠組みの中に現れます。
80 年代後半 Apple のパーソナルコンピューターがグラフィック業界 に現れた当時、それらのソフトウェアの価格は数百万円は当たり前の ものだった。しかし 2000 年、インターネットの普及によりパーソナ ルコンピューターを触れる人口が爆発的に増加したことによりソフト ウェアも大幅に価格が下がり限定的なユーザーだけでなく個人ユー ザーも手に入れることができるようになった。そんな過渡期に誰より も早くコンピューターグラフィックスを学び取り入れ、そして誰より も早く手放したのが角田氏だ。 登場したばかりのデスクトップをいじり倒すことで到達した先に感じ たことは人々の仕事のあり方や求められることが大きく変わるという こと。コンピューターによって「使われる」時代の到来の予感だった。
われわれ ( 細野・佐々木・佐藤 ) がまだ幼い子供だった 80 年代後半に 20 代の後半だった角田氏は東京という主戦場を離れ山梨県に居を移し た。山梨での生活の後、東京に活動の場を戻し2004年までデザイナー の仕事を続けアーティストに転身した。
90 年代 -00 年代は東京を中心とする日本のカルチャーと世界のカル チャーが紐付き始めた重要な時代だったように思う。
高校のカバンには海外のストリートアーティストがカバーの雑誌が入っていたし、当然今よりネットは低速だったけれど違法ダウンロードサイトでどんな 音楽も聞くことができた。どんなところに住んでいても作品を「私のスペース」に掲載し、それを世界中の人と共有することのできるシステムが出来上がっていった。
都市のアンダーグランドカルチャー・サブカルチャーはまだ市場やそれを含む社会に分類や認識、価値付がされておらず法的にも実際にも枠の外にあったし今のようなリバイバルとしての公のエンターテインメントではなかった。抜け道が無数に存在し、むしろその攻略の方法 は平等ではなく知る人には知られている、といったものだった。
コンピューターやインターネットの世界も同様であったかもしれない。オタクという呼称はまだ限られた者にのみ向けられた神聖な言葉 だったし中学の頃、オンラインゲームをやっていた同級生は学年に二、 三人だった。そして彼らはタバコを咥えパンクミュージックを聴きな がら画面の中の世界と対峙。マウスをカチカチとやっていた。
分類が 曖昧な故、オタクとヤンキーという対局の文化が同居していた。
1987 年 -2004 年に生まれマスコミによって大雑把に「ゆとり」と名付 けられた世代はデジタルネイティブであり、合理的な価値観をもつとされている。
じゃあそれ以前の世代とはなんなんだろう。目的に対して非合理的であり、抽象的なのか。全ての人がそうとは思わないけれど確かにそうかもしれないと思うところも、ある。
それこそ我々がどこにいても知りたい情報に辿り着くことができたのは、今ほど「便利」ではない時代に非合理的に全身を使って活動して きた諸先輩方のおかげであることは言うまでもない。
ちょっと前まで Instagram も Youtube も TikTok も無かった。インターネットの普及率ですら80%を超えたのは2005年でたった20年前。 それ以前は情報を残すには物質化することが当たり前だった。絵画も、音楽も、映像も、文章も、写真も。 角田氏のスタジオにお邪魔した際、90年代に作った作品となる元のスケッチや習作や仕事や写真資料を沢山見せてもらった。今の作品と繋がりのあるスケッチ、20代に手がけたコムデギャルソンとの仕事、本を作るために訪れたメキシコやアメリカのグラフィティーの写真や若 かりし頃のバリーマッギーの写真。 それら全てがデータでなくものとして残っていた。触ることができたし嗅ぐことができた。もちろん見ることができた。それができたのはやはりものとして残っているからであると思う。 それらを眺めている時間はとても幸せで、同時に尊さを感じた。 データは膨大な情報をものすごく小さく保管できる。必要な情報にたどり着くことも簡単だ。一方、物質としての情報は管理にスペースも必要でありコストもかかる。確かにこれは非合理的である。 しかし、 非合理の世代がなければアーカイブは存在しない。本を買うこと、CD やレコードを買うこと。本が全てデータ化され、音楽がデジタルでしか聴かれなくなった先の未来。棚から背表紙で選 んだ本を抜き出しパラパラとめくる、という行為そのものがこの世からなくなる。 情報を得ることと身体の動きが伴っている、ということを忘れてしまう。 ふと思った。そのデータを読み取るデバイスが使えなくなる状況になったらどうなるんだと。知りたい情報をどうやって知るんだろうと。 パーソナルコンピューターもインターネットもス マートフォンもない世界でデータというものはどのような価値がある のだろうか。 ものとしての情報を読み取るデバイスは「ひと」だ。そしてその人も 新たな情報に出会うことでアップデートされ続ける。目の前にある情 報を読み込む。それは飾ってある絵画を鑑賞することとなんら変わらない。 スリープボタンを押してしまえばわからないものに蓋をすることはできる。けれど、ものは目を閉じてもそこに存在する。そこに存在するものと五感全てで向き合い、自分というデバイスを更新し続ける必要がある。 作品をつくったり展示をつくったりする行為は自分自身でもまだわからないもの、頭の皮一枚を掠めて飛んでいくアイディアを唯今の最良の状態で形にしたものに向き合い、情報を取り込み、自身をアップデー トするということだと思う。
ともあれやはり私はデータより目の前にある触れられるものを愛おしいと思う。向き合っていたいから四角い箱の中にしまってたまに出す のではなく、そばに置きたいと願う。 一万年も前の土器の破片も、90 年代のコンビニに並んでいた雑誌も、 この展覧会が始まる少し前にこの世に生まれた今ここに飾られた絵画 も、全て同様にものであり情報のソースだ。 それに触れ、考えるために今日も私はものを手に入れる。
二〇二六年二月二十日 細野晃太朗
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