EAST EAST_ 編集後記 先週末に開催されたアートフェア(フェス、という感覚に近かった)EAST EAST_が無事終幕を迎えました。 なんだか良い区切りになった気がするので、この20年近くを回想してみようと思う。 -二十歳の時、中野と高円寺で暴れ回っていた細野少年は中野のヘビーシックゼロでNAKANO BEAT FACTORYというダサい名前のパーティーを始めた。その頃から周りに何かよくわからないモノを作っている友人が多く、一応おれも美大のようなものに在籍していたので自然と音楽だけでなくライブペイントや展示がマッシュアップしたパーティーを作っていた。
その頃、バイト先が一緒だった女の子が作っていた人毛でできたでかいキノコ(高さが150cmくらいあったな)と藤原カムイの息子が描いてくれた全裸の自画像や周りの友人たちの作品を飾ってパーティーをしたのが始まりだった。気がする。 そのキノコはめちゃめちゃカッコよくて、どうしても持ち帰りたかったから実家のガレージに置いておいたら大量の虫が発生して朽ちていった。
髪の毛は生きている。その子は、寝静まった原宿を徘徊し、美容室のゴミ(といえば髪の毛)を集めてはキノコを作っていたわけだけど、今考えるととても面白いと思う。
-もっとキノコのことを話したいんだけど一旦置いておいて、それ以降は高円寺のAmp cafeという場所に根城を移し、当時店長をやっていた高円寺の大黒ケンジに出会って月に一回展示とTシャツと音楽のパーティーを始めた。
それが人の前でTシャツを刷ることの楽しさを知った始まりだったんだけど、大黒あんちゃんには本当に好き勝手やらせてもらった。 おれにとって本当に自由に、後先を考えずなにかを発散できる貴重な場所で、そこで多くの悪友と出会い人生の楽しさは加速していった。 2年くらい毎月続けて、とにかく遊んだ。遊んだというのは企画を作って大酒を呑んで身体中に傷を作って煙をぱーっと吐き出すこと。
その時はどこでゲロを吐こうが、煙を吐こうが全裸になろうが悪態をつこうが何にも気にしてなかった。無敵だった気がする。そんなことないんだけど。今思えばたくさん失った。
しばらく続けて、高円寺の天国、DOMスタジオでバーベキューと生ビールとバンドと電子音楽のパーティーをしたり、変わらずヘビーシックでパーティーをしたり、今思い返すとパーティーばっかりしていた。おれはパーティーに遊びに行くのが好きなんじゃなくて、パーティーを作ることが好きだった。それは何も特定の場所でなくてよくて、その大半は実家の地下室の自室で毎日のように開催されていたんだけど。
そのころ同級生達はとっくに就職して働いていた。SUNNOVAなんかは朝までうちで遊んでスーツでそのまま仕事に向かってた。すごい。
-その後、どうしても思い出せない空白の一年を経て半蔵門で立ち飲み屋を始めることになる。
2年くらいやって、今まで出会ったことのない普通、と思っていた務め人のおじさんやおばさん、いわゆる社会、って感じで生きている人々とカウンター越しに色々な話をした。
正直そういう人種を馬鹿にしていたし差別していた。でもこの経験はおれにとって本当に大きいことで、世の中つまらない人間は1人もいないし我々と何も変わらないんだってことを知った。普通のやつなんていない。こちら次第で全て面白いんだ、と気づいた。ようやく知れた。生意気ですみません。
その時社長だったおじさん達は職を失い、今は赤くて光る棒を振ったりしている人もいる。暫くぶりに会うと、日に焼けて元気そうだった。いつでも彼らに会える訳じゃないけどいつも会いたいな〜と思っている。
それがきっかけで、プラプラし続けたせいで6年もいた大学の卒業制作は”人間サンプル”という対談集になった。
10代から70代までのお客さんに、その人たちが好きな店に連れてってもらって呑みながら半生を聞くだけ。とっても楽しかった。
立ち飲み屋を閉じ、やることもないのでアメリカに行った。ずっと行きたかったサンフランシスコに友人がいたのでクローゼットに布団を敷いて寝泊まりしてたんだけどあの街のアパートは本当に古くて身体中ベッドバグに食われて散々だったな。
最初は公園でTシャツを刷って、ウィードを吸って、チャリでぐるぐる回ってを繰り返していたんだけど飽きて、地元の美大のワークショップに忍び込んでスケートボードのデッキを作り始めた。200枚くらい作ったあたりでばれて、大量のデッキと共に放り出された。
途方に暮れたなあ。
金も底を尽き、友達の家からも追い出されたんだけど向こうで知り合った中国人のカップル(お金持ち)のマンションにしばらく住ませてもらった。おれの悪影響でそのカップルの彼もだらしない生活になっちゃって(知るかよ)彼女と険悪になっちゃってにっちもさっちもいかなくなっちゃって、ついにはその家のソファの下とかクッションの隙間とかをひっくり返して小銭を集めて暮らしてて、ある時その金で階下のドーナツ屋で一番安いドーナツを買って、そしたら出たとこにいつもいるホームレスがいて、彼にそのドーナツをあげたらなんかスッキリして大量のスケートボードと共に高円寺に帰ってきた。
帰ってきてすぐ、でスケートボードの展示をしたのがAmpで展示した最後だった。
-その後、親父がずっと使っていた半蔵門の地下のオフィスを出ることになったので自分の場所を始めようと思ってその契約を引き継いで始めたのがANAGRAという場所。
やることは今までと何も変わらない。展示とパーティーと大騒ぎ。あとは新しい仲間。
クラブじゃできないパーティーを、ギャラリーじゃできないエキシビジョンを。したいことができる場所が大事だというのはAmpで身を持って体験した。あんちゃんありがとう。ANAGRAは週に一回展示を変えて、その頭とケツにパーティーをする、ということだけが自分の中のルールであとはもう行き当たりばったり。1人っきりでやってったからこんなこと長く続かないのはわかっていて、始めた時に3年で潰すって決めてたんだけど。3年で100本以上の展示と、とんでもない数のパーティーをした。初期の1年ぐらいは完全な無法地帯で正気な時間の方が少なくて、エレベーターで上下しながら寝ているといった有様。
あの場所で死者や逮捕者が出なかったのはとても奇跡のようなことだった。出てたのかもしれないけど。
少なくとも自分がやってた3年はエレベーターホールやビルの中や壁には1つも落書きがなくて、みんなとんでもないやつらばかりだったけど、場所にリスペクトをもってして遊んでくれていたのがわかって嬉しかった。
ANAGRAは本当に児童館みたいな感じで、違うガッコーや趣味の奴らが毎日のように集まっては本当に色々な話をしてきたな。
当時はとにかく、どうやったらこいつらの作品が人の手に渡るのか、ということを考えていた。
絵の売り方や梱包ややりとりなんて一つも知らない若造はとにかく面白い展示をたくさんして、飽きさせないようにすれば良い、というお門違いな発想で突っ走っていたわけで。
5000円のドローイングが売れるだけでも涙が出るくらい嬉しかった。特に自分達の仲間!のような人じゃない、例えば飲み屋の頃のお客さんに特に見て欲しかったし届けたかった。
良いなあと思う紙っキレに5000円払うことを普通にしたかった。そんでそれはちょっとずつ、ANAGRAでは普通になっていった。地上では知らないけど。
ここで時間を過ごした奴らとはとっても大事な関係になった。距離や国籍、見た目やノリとか一切気にしないで、みんな自分が自分でいられていた気がする。
-そんで、子供も産まれるし、穴からは出ちゃったし、3年ぶりの現実世界って感じでめっちゃ切羽詰まってその時はタクシー運転手にでもなろうかな、とすら思っていた。志茂田景樹の息子は大金稼いでるって知って。いやいや一旦落ち着け、と自分に言い聞かせそれこそEEのディレクターの1人のノリに間に入ってもらってgasの西野さんに話を聞いてもらいに行った。おれは何ができるんでしょうか、と。自分に何ができるかわからなすぎたから。
あと、同時に、内装をやっている山形のスケーターのジーコくんに会いに行った。そしたらすぐにでも、ってことでおれは内装屋になった。人生で最初で最後の師匠かもしれない人との出会いだった。ジーコくんはビーサンで解体の現場に来るような最高な師匠で、色々な現場をやらせてもらった。おおよそ内装屋じゃやらないことや、プロセスも全部教えてくれた。師匠がいるって安心だな、と思ってた矢先、ジーコくんはドイツへ行くと言い出した。はじめて2年足らずかな。突然でびっくりしたけど、そういうところが好きだったから、嬉しかった。
また1人になったおれは、できることをしながら流れていたらショーウィンドウとか、どちらかというとインテリアとか、そういうことをやることが多くなって、またANAGRAのころの作家とモノを作る機会が増えてきて、不安定ながら自分で空気や空間じゃなくてモノを作ることの楽しさを再確認できた。
本当に色々一緒にやってくれたひかるくんとは台湾のUAの店舗の什器を作りに行ったりして、とっても楽しかった。仕事って最高だな〜と思ったりした。
-そんなこんなでやってると、なんだかんだあるもんだなーって感じで日本橋馬喰町のギャラリーBAF Studioをやることになった。日本でアートっていうような言葉や絵を買うことがANAGRAン時より世の中的に普通になってきたような雰囲気があった。
かつての仲間や新しくできた仲間と、それこそ”エキシビジョン”って感じでやってきたんだけどデスクに座ってポチポチやったり、大きな声で誰それ構わず作品や作家のことを伝える空気が”ギャラリー”にはないなあ、と思って、自分には合わないなって(決してギャラリーを嫌っている訳ではないよ。役割と相性、ってだけ)。絵の売り方が全然違った。
珍しく気も落ちて、ある時、西くんに覇気とか輝きとかかつて纏ってたものがないっす!みたいなこと言われて、自分はそんなこと思ってなかったから青天の霹靂って感じだったんだけど、それに却って気付かされて、安いアパートで鑑賞室をやって、今までのどの店よりも丁寧な伝え方やコミニュケーションができる場所を作ろう。来るのが面倒で、誰でも来れる場所じゃなくて、ちょっと緊張して、高い家賃とかよく分からない人件費とかそういうのが関係ない、とにかく自分にとって文句のない完璧な場所を作ろうと思って西荻窪でHAITSUを始めた。
HAITSUはまだ2年くらいだけど、本当に自分にとって大事な場所。最高な場所。こんな小さいアパートでもパーティーはできる。
-そういえば、1回目のEAST EAST_はとても小さな規模で、BAF Studioとして参加して、Sablo Mikawaと展示を作った。ごくごくインディペンデントで、こじんまりとしていたけれど今でもあの時の空気は忘れない。ずっとずっと作家と作品のことを考え、真摯に向き合ってきたSIDE COREのトーリーやジャンゴだからこそできるほんとにピュアなカウンターだった。
それで、2回目。規模はとんでもなくでかくなり、好きな人たちだけのイベントじゃなくなった。時代も時代だし、直前まで出るかどうか悩んだけれど態度の表明をしないと今までの自分に失礼だと思って参加することにした。
ほとんどアートフェアは行ったことなくて、空気も分からなくて、でも良い展示をすれば良いや、って感じで、山口幸士とオーガミノリという大好きな画家の2人にハイツには入れることのできない大きなサイズの作品を描いてもらって、フェアの背景にならないようにブースを囲った。 多様な表現が5メートル四方に詰め込まれるだろうな、と思って大きな絵画だけでいく、というのは自分なりの態度だったつもり。 あれだけ良い作品が並んでいる中で、作品を全て人の手に届けることができた。たった3日。 自分だけの力ではなくて、大きくいうと時代もあるし、細かいところだと作家たちが使っている画材を作っている人も全て関わって得た経験と結果。 撤収が終わって、作品を京浜島に運んでいる2tのトラックを運転しながらとても清々しい気持ちだった。
-3月に山梨に引っ越しする。娘は山梨の小学校に入学して、4月には息子が産まれてくる。家も構えた。 こうやってだらだらと書いていると、とにかく自分の人生は不確定なことの連続だった。もう不確定しか受け入れられない。結果がわかっていることに興味が湧かない。それはしょうがない。 こんな自分を理解してくれて、可能な限り受け入れてくれているワイフと娘、や家族。それにマイメン達。一緒に仕事をしようと言ってくれる人たち。 自分にとっては全ての人が神様です。これを読んでくれているあなたも神様です。 そして、身と金と時間とリスクを背負って死ぬほど遊んできたかつての自分にようやっと感謝できる気がする。 会場ではこの20年に出会った人たちとまた会うことができた。 20年という時間を成仏できた気がする。もうすぐ死ぬんじゃないか?と思うくらい、走馬灯が駆け巡った 60歳になった自分がまた何かの折に回想モードに入った時、今の自分に感謝してもらえるよう今後も不確定イズムで流れ流れて生きてゆこう、そうしよう。 しかし、ここまで来るのに展示を初めて20年。時間がかかったなー。やめなくてよかったなー。 良い気持ちです。
ではまた東京で。もしくはどこかで。
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