JAN 14 - FEB 1 2026
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- 1月6日
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更新日:6 日前

SNS時代の到来で立体的な作家の人格というビジョンの前に作品がフラットなビジュアル(画像)として一人歩きし、作品が作家のイメージをつくるようになりました。本来作品の前にそれをつくっている人間・人格が存在しますが現代ではその順序が入れ替わってしまっているように感じます。
さらに、フィードに置かれた画像の多くは見せるために切り取られた表層的なものにとって変わりました。そこに記されたテキストですらほとんど読まれることはなく、文字ではなく画像の羅列、視覚的効果としてしか意味をなしません。
今回参加する三名の人間関係もまさに同じ状況です。それぞれの作品や活動エリア、交友関係、ネットワークやどういう層に支持されているかはお互いに把握し認識していますがそれによって構築されたイメージと作家自身の人格や作品が内包するビジョン(意図)が繋がっていません。
本展ではこのような現状を理解した上で、現実世界では関わりのなかった三名の作品を極小展示スペースである唯今に展示します。事前の作家同士のコミュニケーションを排除し、ただそれぞれによってつくられたペイント、陶芸、彫刻と全く異なる手法の作品群がどのように呼応しどのような展示空間を創出するのか。鑑賞者のみなさまと共に解き明かしていければと考えています。
[作家|ARTISTS]

-添田奈那 | SOEDA NANA 1994年生まれ。セントラルセイントマーチンズ ファウンデーションコース修了。
アジアで売るおもちゃや看板、ガラクタから影響を受け「チープ」らしさを愛おしく感じると語る添田が描く、どことなく不穏な空気を感じるユーモア溢れるキャラクターは現代社会で心身を疲弊している人類の怒りや悲しみを代弁し、時に共に涙し、時に癒しを与えてくれる存在です。大量のデッサンの中からモチーフを決め、あくまでも感情的に描かれるペインティングからは彼女自身のパワーをありありと感じることができます。ストレートにネガティブな感情を表現するのではなく、日頃慣れ親しんだキャラクター的ビジュアルを経由することでペインティングやアニメーションに変貌させます。

1986年京都府生まれ。京都府京丹後市に窯と周辺の陶芸家の作品を扱うショップ「H」を構えているDAISAKは、各地で個展やグループ展に参加するほか、カップやお皿などの工芸的プロダクトも積極的に発表しておりゆるやかなタッチのイラストと組み合わされた使い勝手の良い食器や独創的な鉢は、国内外で多くのファンを魅了しています。DAISAKの陶芸の原点は、子供の頃に遊んだ粘土やレゴの造形と、空想の物語だと言います。それらの遊びと、プラモデルやジオラマなど、昔から好きだったという立体の要素が組み合わされた独自の世界観が、陶芸表現を拡張しています。
プロダクト・工芸としての陶器、陶の芸術作品としてのオブジェ。その間に存在する境界を「粘土遊び」という原始的な行為で突破します。

1985年東京生まれ。 ロンドンのAASchool of Architectureで建築を学ぶ。
帰国後路上表現活動に並行して製図技術の延長として発案した「A_Maze」という画法を元に画家としての活動を開始した岩村は現在、建築を出発点とする芸術性や社会性を題材とした作家活動のなかで、時間とプロセスという概念を空間・立体・平面の媒体でクロスオーバーさせた表現を試みています。
都市やそこに存在する構造体を想起させる作品はどれも全く異なる手法でつくりあげられていますがその多くは何かの「裏側」が描かれています。壁の下地やタイルの糊の跡、木材を削ることで発現するテクスチャー。それらは単に創造だけでなく破壊や解体を経ることで見つけることができるモティーフです。画家としてパネルにインクを乗せるという行為と建築家としてそのパネルの構造について考える。その両面性が一つの作品として現れています。
仮面とは、かつては人と世界との関係を編成し直す装置であった。それは神々や悪魔が棲む原初的な魔術世界への回路であると同時に、身体の限界を越えて自我を外在化するための構造であり、他者との距離や恐れを調整する媒介でもあった。(中略)日本文化において仮面は「面」あるいは「表」と呼ばれ、平面や表層を意味する語として理解されてきた。この表層は、内部を隠す皮膜であると同時に、外部との関係が立ち上がる場所でもある。つまり「表」とは、内と外を分ける境界線ではなく、両者が交錯し、意味が生成される厚みをもった領域、いわば建築的な「間」である。仮面はこの間に留まることで、身体と世界の関係を一時的に再編成する。
(展示作家の一人である岩村寛人が記した文章の一節から引用)
この2017年に岩村が書いた一節を2026年に読むことになった。おそらく、彼を「間から面(PICTURES IN THE MIRROR)」に誘わなければこの文章がわたしに届くことは無かっただろう。
二面性もしくはさらに多面的な性質を持ってして活動する三人による展示について思案している中で「間(あいだ・ま)」「面(おもて・めん)」という言葉が浮かんだ。どの地点から見るかによって面は裏に代わり、裏は面に変わる。
現代では誰もが安易になりたい自分に成るためにSNSという名の仮面を装着することができる。それはある地点の自分ともう一方の地点の自分を確認し、行き来するための装置であり空間であった「仮面」ではなく、自分をなにかから隠すため、いわゆる分断や防御を求めて装着されるものだがそもそも分断や防御とは何と何を分けるものなのだろうか。
1994年に公開されたジム・キャリー主演の映画「MASK」の主人公であるスタンリーは小心者の自分に嫌気がさしていた。言いたいことも言えず、自らを社会の中で弱者のように感じていた。嫌気がさす日常生活の中、ひょんなことから拾ったマスクを身につけるとなりたかった(と思っていた)自分に成ることができ、富も名声も手に入れた。しかしいつしかそのマスクを脱ぐことができなくなり、徐々にマスクそのものに乗っ取られてしまう。
アメリカの映画なので物語はハッピーエンドを迎えるが、30年も前に作られたこの映画によって現在のSNSとの関わり方、あり方を改めて考えさせられる。(わたしはこの映画が大好きだった)
スタンリーで無くとも、誰もが仮面を被ることが許されそれが普通になった今、本来の自分、というのは仮面を装着している時、していない時のどちらか、ということではなくその両方が存在することによって現れる「間」なのかもしれない。その「間」は、裏でも表でもない、いたってニュートラルな世界だ。
添田は愛と怒り、かわいいときもちわるいの二面性を、DAISAKはある意味での陶器ブランドの長と工芸や用途から離れた作品を作る作家としての二面性、そして岩村は建築家とアーティストという立場の二面性を携えている。
このそれぞれの二面性はグラデーション空間が無く、はっきりと線引きされているわけではなく、共にあることによってどちらも成立するとわたしは考える。それぞれの二面性の間に立ってみるとどちらも面なのだ。
彼らは「面=間」としての作品をつくりつづけることによって自我を、そして世界を認識することができる。
二〇二六年一月七日
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