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like a human



唐突にブログを開設。

ブログというのはやったことがないけど1980年代生まれとしてはmixiの日記を通過し、今に至る。mixiのそれとは違いinstagramやtwitterでは瞬間的に言葉が流れていくので文章を書く、という感じがしない。


大学生の頃、文体論という講義があった。この授業は先生も含め割と好きだった。まさにpot headであった若かりし私はこの授業の直前まで家で吸っては吐いてを繰り返していたので自転車を漕いで大学に着く頃にはとてもよい状態に仕上がっている。仮説の校舎の屋上で、授業の前にタバコを吸っていると例の先生がやってきて隣でタバコをふかしながら「今日もいい目してるねえ」と。なんのこっちゃ。


その文体論という聞きなれない講義では何を学んだかというと正直ほとんど何も覚えてないけれど1つ教えてもらったのでそれでよしとする。

その教えてもらったことというのが文体とはその人そのものということ。ようするに、人間を磨きましょう、という講義だった。創作でもドキュメンタリーでもその文体でその文章自体の空気をつくる。それにはいろんなことをしていろんな話をするのが一番だ。と先生はいう。私は「先生!」と思ったわけだけど、ぼんやりとした記憶ながら結構この言葉というか考え方は刺さった。


その人の文体が人格やその人そのものの特徴なのだとしたらどれだけシンプルな言葉でそれを表現できるんだろうか。限りなく会話に近い近年のSNSのやりとりでは、文体を感じることは難しいかもしれない。


かつては編集や文章を学ぶ科にいたので普通の大学生より書いたり読んだりしていた気がするが、自分自身展示のステートメント以外あまり文章を書かなくなってしまったので、文体、磨いてみようかな。という気持ちで。


道端にラーメンが落ちていたことについて。


中野のまんだらけに漫画を売りに行った。


まんだらけの買取のカウンターはわーっと10列くらいカウンターに向かってスライド式の段ボールを乗せる真っ赤な板が並んでいてそこに買い取って欲しいブツを乗せて呼ばれるまで待つシステム。

板に漫画を丁寧に載せ、カウンターに滑り込むと、隣のカウンターで30代半ばくらいの本当に全く印象のないネルシャツの男が14,5の美少年たちのブロマイドを大量に買い取ってもらっていた。

どうやら買取の価格である50円という数字に納得がいかないらしく消え入るような声でぶつくさと反抗している。ぶつぶつぶつぶつ。目線は完全に下。そしてものすごく不満そう。店員さんは外国の方。他の店舗では500円だとかどうだとか。スウェーデンの国旗がプリントされた名札をつけた店員さんが「どこの店舗ですか?」ととっても優しい声でちゃんんを彼の目のあるところを、決して高圧的ではないまなざしで尋ねると、彼は「そんなことは忘れたぶつぶつ」で結局50円で30枚買い取ってもらっていた。なんのこっちゃ。


私の買取金額は15,800円だった。ブノワ・ペータースの闇の国々という漫画が思わぬ高額で売れた。別に金が欲しかったわけではないがなんとなく毎回嬉しい気がする。


その後、小雨の中、作家の友人である山崎由紀子 の野方のアトリエに作品を届けに行った。*野方というのは東京の中野と高円寺の間。西武新宿線という私鉄の走る小さな町。


東京の主要な駅から離れたところに唐突に現れがちな、かつては商店街だったであろう細い路地。

そこには小学校の頃毎週のように通った銭湯がある。入って帰ろうか一瞬悩んだが忙しそうにしていた妻の姿が浮かぶ。銭湯を諦め、アトリエの手前に車をできるだけ壁に寄せて駐車する。車二台がすれすれすれ違えるくらいの道幅しかないので以外と多い車に迷惑をかけないようさっと降車してトランクの扉を持ち上げると左の方からものすごい圧を感じた。何かがいる、と思い振り向くとそこにはほとんど手がつけられておらず箸の刺さったラーメン。一度めでは感情を咀嚼できず二度、三度振り返りながら認識を繰り返すとどうやらこれはまぜ麺系の汁なしラーメンだと気づく。


以前、杉並の善福寺川沿いでちゃりを漕ぐ全裸の男に遭遇した時も現状把握まで時間がかかった記憶がある。唐突にその場にいてはいけないものが現れると人は反応できなくなるんだなとその時全裸のおっさんから学んだ。


手付かずの伸びきったラーメンも、全裸のおっさんも誰かの家のテーブルの上や銭湯の湯船であればなんの問題もないし存在感は薄い。

突然に、ミスマッチな、矛盾した状況に現れるとなんてことない物体も圧倒的な存在感を放つ。


秋の小雨の夕暮れの、細い路地に置かれたエアコンの室外機の上にのった、ラーメンは楽しませてくれたがおっさんは家でやってくれ。




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