OUR RULES/白線の上
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- 11月24日
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更新日:2 日前
SIDE CORE PRESENTS 「Living road, Living space」内で展示されている細野晃太朗によるパラサイトギャラリー「唯今(I’m home)」では、第二弾のエキシビジョンとして、アーティストの高田光とフォトグラファーの濱田晋による2人展を開催します。

—— ごく個人的な話をしようと思う。
15年近く前のことを思い返しながら、なので記憶違いがあったら失礼。思い出なんてそんなものかしらん。 濱田とは当時私がやっていた場所で2013年に出会った。その時彼を連れてきたのはまだSIDE COREに参加する前のディエゴだった。 スペインのストリー トアーティストの展示を開催していたので一目でそれっぽい人らが観にきている中、彼らは平日の昼だったかにおずおずと現れた。むしろその地味な出立は鮮明に記憶に残った。その時は彼らがなんなのかよくわかっていなくて「なんだか間違えてきちゃった親戚かなんかの2人組」と脳が咄嗟に判断したが、間違えようがないくらい来にくく、当時まだ情報も少なかったその ANAGRAという場所に間違えて来るはずがないと首を横に振り展示に来た客である2人に向かって「何しに来たの?」と阿保みたいな質問をした。
彼ら曰く、今2人で活動していて展示をする場所を探していると。この時すでに興味が湧いていた私に「これ今作ってきたんですけど」と追い討ちをかけるよう に手製の冊子を渡してきた。ページを開くとなるほどそういうことかと、自分が今求めているやつらに出会えたかもしれないと思ってしまうような、とにかく素敵な表現で彼らのしたいことしてることがレイアウトされていた。
ただこの時展示以降、近年まで彼らが2人で展示をつくることはなかった。
高田とも濱田同様、ANAGRAというスペースで出会った。ディエゴは ANAGRAに来ては「(〇〇)高田という奴がいる。すごく面白いことをしている」と言い、高田は高田で「(〇〇)ディエゴという面白い動きをしているやつがいる」と、同じようなことを言い合っていた2人がある時ついに巡り合った。
そこからというもの彼らは幾千の夜を共にしてきた。とはいえついたり離れたり、寂しがったり嫉妬したり支え合ったり。ただ相思相愛にも関わらず大きな声で褒め合うことはそこまでなかったように思う。 高田はある時リソグラフのマシンを自宅の小さなリビングに押し込み紙を挿し、本をつくり始めた。 当然、濱田も高田も手製のホッチキス止めの冊子(ZINE)をことあるごとに発行して売ったり配ったり送り合ったりしている。しかし、自分の家にプリンタ ーを設置し、自らの本だけではなく周辺の作家や人物についての本も出版している人物はそうそういない。編集し、出版するということは高田のライフワークとなっていった。
1年に1冊くらいのペースだろうか、内容も形式も 様々な本を「PURESU DE TOKYO」という名義で出版し続けているがその傍らで街の壊れた掲示板を回収し修理し再設置したり、街路樹の切り株で木版画のようなものをつくったり、ガードレールに捨て去られたままの用途が消えた自転車のキーチェーンを外して集めたりしていた。美術館のような公共性の高い、大きな場ではないがその行為や思考の全てはきちんとパッケージングされ、陳列された。
この時から最近まで2人が何かを一緒につくって発表するということは無かったが2025年の夏、とあるイベントを2人が渋谷の路上で企画し開催した。なぜこのタイミングで高田が濱田を誘ったかは惜しくも現場に立てなかった私には明らかではないが、意識の変化を遠くから感じた。 私が知る中で2人でやった、と言える活動はこれがはじめてだった。
濱田個人の話に戻ると、彼の展示には額装された写真作品が並ぶことは滅多にない。それは天邪鬼からくる現象なのかもしれないが、フォトグラファーとして技術とセンスをお金と交換する濵田からしたら写真を撮って額に入れて飾ることはそもそも野暮なことだったのかもしれない。 もしくは逆説的 に、写真を撮り納品する仕事を制約とするならその制約の中で自分を見出し 表現するための訓練としてこういう自由の中ではあくまでも自由を、というような態度を取っているのかもしれない。 濱田の活動の1つに"緩やかなアナキズム"と自称し、様々な手段を用いて活動している「HAMADA ARCHITECTS™」というものがある。例えば、濱田が生活の中で見つけた工作物に近い建築や、何かに使えそうな人の手が入った気配を感じる不器用な装置などからインスピレーションを受け、縮小板の模型をつくる。プロトタイプと称されたそれらの多くは自宅のリビングでつくられ仰々しくブリスターパッケージをし、オンライン上で購入者を募り、取引が成立したら直接納品へ出向く。 この活動の是非はさておき、濱田の妻子は彼をどのような眼差しで見つめているのだろうか。
ZINEにしろアクリルで額装された自転車の鍵にしろ、HAMADA ARCHITECTS™のプロトタイプにしろ、2人がつくってきたものは、それぞれの主戦場を生き抜くことで得た経験や不信感、 その他ネガもポジもひっくるめた思考を編集しまとめパッケージングされたものだ。 例えば毎日の通勤の道。お気に入りの立派な街路樹が切り倒され、その断面が顕になっていた。何か悲しい気持ちが心をすり抜ける。普通はそこまでかもしれない。良くて切り株の写真を撮る。何かを思った証として。しかし後日、その切り株を再度訪ね(通勤途中ではない)、往来の中照りつける太陽の下 で断面にインクを塗り紙を擦り付けて拓を取る。そしてそれだけでは飽き足らず、綺麗な額に納め、展示の機会を作り映像と共に展示する。当然値段をつけるわけで、ディールが成立した際には綺麗な箱に収まり届ける。 なんて丁寧な思考の保管(パッケージング)の方法だろうか。こんなものってつくる必要もないし、共有する必要もない。
しかし、なんにせよ彼らはその時の自らの感覚をパッケージングし、陳列し、共有したい。そして、鑑賞者や保管者からの反応が欲しい。 根底ではそれを求めているはずだ。ニッチな、自分しか気づいていない、自分ですらも咀嚼しきれていないその瞬間をなんとか保管し飾る。そんな点のような感覚に誰かからの反応が確かにある。
その確さに気づき、繋がっていくと世界に1人じゃない、と感じることができる。彼らにとってどうかはわからないけれど (とにかく2人とも天邪鬼なので)私はそういう有機物や無機物からの反応、電極から電極へピリッと小さな稲妻が流れるような反応を体感するために展示をやっているところがある。私に取って思考の保管の方法はだれかと展示をつくることである。
天邪鬼、と何度も言っているが大事なことである。
みんながみんなそうとは限らないが私の場合、制約の中で見出すのはこの中でできる自分らしさでありそれを問う対象は自分である。反面、制約の対岸にある自由の中で何かを生み出す時その対象はもちろん自分との問答を経た後だが他者、多くは信頼している仲間に向けられる。そしてそれがかえって制約を発生させることもある。制約の中において存在する自由と自由の中に 存在する他者への意識。その間を往復しているとたまに見えなかったものが見え始める時がある。簡単にいえば制約も自由も同等に大事で同様に愚かなものなのだ。
美術館があり、その中に小さな空間がある。壁のサイズは決まっていて、鑑賞者の数をコントロールすることもできない。そして、四角いフレームの中に収め、壁にかける必要がありその上私はああだこうだと彼らに様々な言葉を投げかけるし、制作の時間も極々限られている。とんでもない制約だと思う。笑ってしまうくらい自由には程遠い。
この展示では、他者への意識を向ける前の感情を、パッケージされきる前の至って曖昧な状態を陳列することになる。20年間街に隠し続けていた秘密を回収し、編集する。
どちらにも向いた矢印の間の線。その上を片足でそろそろと歩くような感覚。ここから落ちたら死ぬ、とルールをつくり、夜の白線の上を渡る。ルールをつくる。途中で切れた白い線。飛び越えて遠回りしたその先には見たことのない空き地が広がっていた。そういう景色はいつだって我々に気づかせてくれる。そしてそこに何かを添える。彼らはそれを知っている。決して独り占めしたいわけじゃない。
だから、目に留まりやすく、手に取りやすく、そして誰の生活にも入り込めるように心をこめてパッケージをする。20年前は真っ白だった天邪鬼でやさしい2人の地図が作品のようなものとなって現れる。
最後に、この展示はディエゴを喜ばせたくて企画したところもある。彼ら3人は褒めあわない。なぜなら仲間だからだ。同志だからだ。同時に、大声で褒め合える瞬間を待っている。わかる?褒めたくないんじゃなくて褒められないんだ。簡単には。自由の中でつくるとき、いつだってお互いの顔が浮かぶ。東京の呪いのようなもんだ。この2人の展示を見て、彼がいつも通り「いっすね」とつぶやくか、笑顔を見せてくれるか。そんなことばっかり気になっている。情けない。 こんな個人的な理由で公共の場を使うなんて!と思うだろう。けれどいつだって理由は個人的だ。それは場所に左右されることは決してない。場所が変わってもやることは何1つ変わらない。 生活で拾い上げた思考を丁寧に、大事なものが劣化しないようにパッケージし並べ伝え届ける。それと交換するのは他者からの反応だ。 「唯今」の地点 を確認するために。
細野晃太朗
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